シアノビフェニル(nCB)系液晶のHOPG基板上配列に関する
分子動力学シミュレーション


大石 雅明  岡部 弘高  瀧 正二  竹内宗孝(富士通)  紙谷 希(富士通)  甲斐 昌一


1.はじめに
 走査型トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscope:STM)は、個々の原子を実空間において直接観察することのできる、極めて有力な表面観察法である。 STMは金属や半導体の表面構造
1)、有機分子の配列構造の観察2)など、広い分野にわたって活用されている。
 有機分子を対象としたSTM研究の中で、比較的早く試料作成法が確立したシアノビフェニル系液晶(nCB)(図1)はSTMによる研究が多くの研究者によってなされてきた。 そして、スミス等3)や岩壁等4)は、配列の観察やその形成要因の議論をしているが、未だ配列の要因については完全な解明には至っていない。 我々の研究室においても、nCB系液晶分子のSTM観察を行い、これまでに観察例のない7CBと9CBのSTM像を加え、6CBから12CBまでの一連のSTM像を得た。 その結果、HOPG基板上において、7CB(図2)と9CBはシングルロー構造(1分子1列)の配列を、8CB(図3),10CB,12CBは、ダブルロー構造(2分子1列)の配列をとることが分かった5)。 また、nが6、11の場合はどちらにも属さない奇妙な配列であった。大別すると、nCBにおいて、シングルロー構造はnが奇数で、ダブルロー構造はnが偶数で観察されており、アルキル鎖の炭素数の偶奇性が重要な要因となっていることが推測される。 我々は、この配列要因は分子自身の持つ電気双極子モーメントと基板・アルキル鎖間相互作用によって決まり、基板との相互作用は、アルキル鎖の末端の運動性がnが偶数か奇数かで変わることが大きな要因と考えている。 ただし末端以外に長さも影響し、鎖長が短い6CBではシングルロー、鎖長が長い11CBではダブルローの構造を含む例外的な配列になったのではないかと推測される。 しかし、STM観察からは、配列過程や吸着状態における液晶分子の運動、配列要因に大きく関与すると考えられているアルキル鎖部の挙動を観察することは不可能であり、このような直接の観察が困難な対象に、コンピュータシミュレーションは有効な観察手段となりうる。 これまでにHOPG基板上の8CB液晶分子に対して、STM像を元にあらかじめ分子を配置し、詳細な最安定状態を求めるモンテカルロ法6)や分子動力学法7)による計算が行われている。 しかし、基板への吸着過程を含めた分子動力学シミュレーションは報告例が少ない。そこで、吸着過程を含めた分子動力学法による計算機実験を試み、実際の観測から得られたSTM像と、その計算から得られた配列構造との比較検討を行った。
            
2.コンピュータシミュレーション
 今回、我々は自発吸着から配列に至るような、より実験に近い状態を再現することを試みた。まず最初の試みとして、STM観察例の多い8CBと、配列状態の比較のため7CBを対象とした。 計算には古典的分子動力学法を用いた表面状態解析用分子動力学シミュレータMASPHYC-SP(富士通)を使い、九州大学大型計算機センター内のベクトルプロセッサVPP700で計算を行った。
 計算は、基本セルの大きさを配列内の1ユニット分(図2,図3)とし、水平方向の2次元周期境界条件のもとで、120Kの等温MDで行う。HOPG基板の厚さは、3層の温度制御層、2層の固定層の計5層に設定した。 1stepあたりの時間を0.5fsとし、最大で30万step、150ps行った。分子発生頻度は2万step(10ps)に1つの割合とし、5から8個降らせて様子を見た。(図4参照)。各原子の電荷は文献値
6)を使い、非結合性の相互作用にはDRIDING8)ポテンシャルを適用した。

                     


3.結果と考察

3-1 7CBのシミュレーション
 図5は120K、時間刻み0.5fsで30万Step、150ps分を計算した結果である。VPP700のプロセッサを16基並列で使用し、計算に費やした時間は約20時間である。図5では吸着状態を分かりやすく表示する為、HOPG基板は非表示にし、視点を基板上方に設定している。
 吸着直後、分子は基板上を移動しており、アルキル鎖も柔軟性をもって動き回る。10万Stepを越え、吸着分子数が2個、3個と増えるにつれて、それらは会合を始め、それと同時にアルキル鎖の平面方向の自由度も制限され、分子は直線状になり、徐々に列を形成していった。 これらは固まりとなって基板上を移動しており、完全には一カ所に留まってはいない。これは発生分子数が少ない為であり、密度が大きくなると分子の移動は収まると考えられる。
 7CBのHOPG基板上STM像を図2に示す。白く明るい部分がビフェニル基であり、やや暗い部分がアルキル鎖である。STM像とシミュレーションの結果を比較すると、列内において隣り合う分子が交互に向きを変えており、基板上配置の様子は一致している。
               

3-2 8CBのシミュレーション
 8CBについても7CBと同様の設定の元で計算を行った。150ps時の結果を図6に示す。STMで観察される図3のようなダブルロー構造ではない。これは次に述べるように、分子が基板上に配列していく過程での初期状態に対応する。
 吸着分子数が少なく、基板上に分子が移動できる空間が残り、分子が動いている場合は鮮明なSTM像は観察出来ない(図7)。このように個々の分子を見分けることが出来ないが、列の幅が8CBの分子長であることから、基板に対し吸着分子数が少ない低密度では、分子の運動性が大きく、アルキル鎖のアンカリング効果が十分に働かず、電気双極子モーメントの打ち消すように並ぶシングルロー構造を取ると考えらる。このように図6は低密度状態に対応し、配列初期の状態を表すものである。
 完全なダブルロー配列の再現には分子密度を上げ、それらが安定な状態になるまで長時間計算する必要があろう。
                  

3-3 アルキル鎖の挙動
 我々はSTM像における7CB・8CBの配列の違い、すなわち配列の偶奇性はアルキル鎖の状態が関係していると考えている。吸着後、配列状態にあり、数十psに渡って基板上での移動を行っていない安定した分子は、アルキル鎖のプラナジグザグ面が基板に対して立っており、炭素数の偶奇性によって末端は基板に離れるか(図8)着くか(図9)に分かれていることが分かった。ノルマルアルカンのMD計算9)でも高温になるほどプラナジグザグ面が立つ傾向は強いという報告がある。
 図8ではnが奇数の場合、末端が基板から離れており、末端の運動性が大きいことが推測される。この場合、基板-アルキル鎖間相互作用は弱いものとなり、配列の主要因は電気双極子モーメントを打ち消しあう作用となる。また、図9ではnが偶数の場合は末端が基板側に存在し、基板−アルキル鎖間相互作用が強くなり、配列主要因はアルキル鎖同士が平行にならぶ効果となる。今後MD計算の結果からアルキル鎖の運動性を定量的に評価する必要がある。

         
4. まとめ
 7CBと8CBのHOPG基板上配列のシミュレーションを行い、STM観察の結果を再現した。特にSTMでは不可能な、配列過程や分子挙動を可視化した。
 配列構造の偶奇性を生じる原因としては、次のようにまとめられる(表1)。nCB液晶のアルキル鎖のプラナジグザグ面は基板に対して立っており、炭素数の偶奇性によって末端は基板に着くか離れるかに分かれる。nが奇数の場合、末端が基板から離れアルキル鎖の運動は大きく、nが偶数の場合、末端は基板に付着しアルキル鎖の運動は小さくなる。基板と吸着分子の間には、
  (T)分子自身が有する電気双極子間の相互作用
  (U)アルキル鎖同士のファンデルワールス力、アルキル鎖と基板間の相互作用 が働く。
 これにより、nが奇数の場合は(U)が抑圧され、(T)が主要因となり、電気双極子(図1)が逆並行にならび、シングルロー構造(図2)になる。また、nが偶数の場合は(U)によって、液晶分子のアルキル鎖同士が隣り合って平行に並んでラメラ構造を作り、ダブルロー構造(図3)になる。

             

5.今後
 今回得られた結果を元に、二次元周期境界の設定や温度設定を実験に近いものにし、ナノ秒以上の大規模計算を実行し、ダブルロー配列の再現やより詳細な基板-アルキル鎖間相互作用の解明を行う予定である。

6.謝辞
 本研究を進めるに当たり、現在市販されていない11CBを提供して頂いたチッソ石油化学株式会社機能材料研究所の古田顕治、斉藤秀雄両氏に感謝いたします。この研究は科学研究費基板(B)試験研究の課題(No.09555101)の1部としてなされている。

7.参考文献
1. R.J.Hamers and J.E.Demuth:Phys.Rev.Lett.60(1988)2527.
2.S.N.Magonov,A.Wawkuschewski,M.-H.Whangbo:Appl.Phys.A 59(1994) 119.
3. .P.E.Smith,J.K.H.Horber,G.Binning,Nature:344(1990)641.
4. Iwakabe,M.Hara,K.Kondo,K.Toguchi,A.Mukoh, A.F.Garito and H.Sasabe:Jpn,30(1991)3201.
5.Seiji Taki,(in print)
6. DOUGLAS J.CLEAVER and DOMINIC J.TILDESLEY:MOLECULAR PHYSICS,1994,Vol.81,No.4,781-799.
7. Makoto Yoneya and Yasushi Iwakabe:Liq.Cryst.,Vol.18,No.1,pp.45-49(1991)
8. Stephen L.Mayo,Barry D.Olafson,and William A.Goddard V: J.Phys.Chem.1990,94,8897-8909.
9. R.Hentschke,B.L.Schurmann and J.P.Rabe:J.Chem.Phys.,96,(1992)6213.